水曜日
本棚の上に置いた携帯電話が今日三回目のアラーム音を響かせる。「限界だなぁ」とつぶやいて、ハナコは転げるように床に降りた。
ふくれっつらで、目の前のふすまを開ける。クーラーのないリビングから入り込んできた、なま暖かい空気が身体を通り抜ける。ハナコはのろのろと立ち上がり、長く伸びた髪の毛を手ぐしで器用にまとめ大きなお団子にくくるとバスルームに向かった。
彼女が家を探すときに三番目にこだわったはずの独立洗面台はこの家にはない。ユニットバスと呼ばれる浴室には風呂桶の端に洗面器みたいな洗面台がある。シャワーを浴びれば鏡はくもるし、化粧を直そうとちょっと足を踏み入れるとストッキングが濡れる。濡れたストッキングでパンプスを履くほど嫌な気分になることはないと思う。(実際にはそれ以上に嫌なことはいっぱいあるのだけれども。)だから、風呂場には専用のピエロの靴みたいな大きなビニルのスリッパが用意されていた。昔の恋人が暮らしていたワンルームでの経験上このタイプのバスルームは極力さけたかったのだが、家賃と立地という第一、第二条件のまえにあっけなくその希望は砕け散った。
ハナコは顔を洗い、歯磨きをすると、寝間着をたまっていた洗濯物と一緒に洗濯機に詰め込み、洗剤と柔軟剤をいれスタートボタンを押した。

ハナコの朝は遅い。玄関を出て三十分の職場はフレックスタイム制を導入しているためコアタイムの始まりの十一時までに到着すればよかった。
仕事相手が夕方にならないと連絡が取りにくいのを理由に、自分の勤務時間を十一時から十九時に決めていた。出社したときに既に仕事モードに入り込んでいる同僚への気まずさも今ではもう感じない。
とりたてて華美な服装をこのむでもなく、メイクにこだわりがあるわけでもない彼女は、三十分もあれば家を出る支度が終わる。だから、十時までに起きれば充分だということになる。実際に彼女は十時まで布団の中でまどろんでいることが殆どだったし、それに合わせるようにして夜眠りにつく時間も深夜一時をまわることが多かった。
ただ水曜日だけ、ハナコの携帯電話のアラームは八時十五分から五分おきに鳴り響く。宵っ張りの体質というのは簡単に修正が効くものではないから、火曜の晩の就寝時間はやっぱり深夜一時を過ぎていたし、あたりまえのように水曜日の朝の目覚めは悪かった。

 水曜日。水曜日は働く日だとハナコは思う。

 小学生の頃通っていた習い事は、いつも水曜日だった。スイミングも、お習字も。三つ上のお姉さんののピアノの日も水曜日だったし、仲良しのさきちゃんも水曜日は習い事に通っていた気がする。高校に入って、隣の家に住む大学生のお姉さんが家庭教師をしに来る日も水曜日だった。今から思えば、水曜日は短縮授業の日で、放課後の時間が他の平日に比べて長いため、習い事に通う日に水曜日を選ぶ人が多かったのだろう。短縮授業がなくなってからもハナコにとって水曜日は働く日だった。

 ハナコが今のマンションに越してきてからこの生活に落ち着くまでたいした時間はかからなかった。ハナコの生活のリズムはちょうど七で割り切れる形をしていたからだ。同じ事を繰り返す毎日をハナコは気に入っていた。水曜日の朝、洗濯機を回している間ハナコは掃除機をかける。
 一人暮らしになれなかった頃、いったい何時になったら掃除機や洗濯機などの生活音を立てて良いのだろうかと悩み、いったんは土日にまとめてやるという試みをたてたのだが、貴重な休日を家事に費やすのはあまりなじめなかったし、終日外出の予定が入れば手が付けられないままになってしまう。掃除機の通過していない畳の上には埃がたまり、二週間分の洗濯物の山はその見た目以上に憂鬱な匂いがした。
なにより大切なことは、ハナコにとって土曜日も日曜日も働く日ではなかったのだ。ある日、ハナコは職場で隣の席に座る同僚にこの悩みを打ち明けた。同僚は、生活音というのはさほど気になるものではないし、そんなに気を使いたいのなら、隣の家の出勤後を見計らってはじめたらよろしいと言った。
ハナコはそれなりに思い詰めていたので、この素っ気ない返事に口を膨らませて何か言い返してやりたいと思ったが、自分の悩みが他人にとってごくごく小さな事であるというこの平和的な日常を喜ぶべきなのだと、とがらせた口をすぼめるように小さく息を吐いた。私は、この日常をさらに平和的に過ごすために、埃と、洗濯物から休日を取り戻さなければならないのだと意気込むと同僚の言葉を頭の中で繰り返した。そして彼女は自分の部屋が角部屋だったことを喜んだ。なぜなら、自分の部屋に接しているのは、右隣の家と下の家の事だけだ。それなら簡単だと、翌日からその二軒を観察することにした。

 下の家の問題については郵便ポストの表札を見た途端にに解決した。下の家の住人は部屋を住居ではなくオフィスとして使用していた。それから何日か観察していた結果わかったことは、夜は無人で、朝は十時位に人がやってくるようだった。
 右隣の家については少々手間取りはしたが解決した。
 ハナコは掃除と洗濯と朝の支度を済ませるのにかかる時間を逆算すると八時半には洗濯機を回したいと思っていたので八時半に起きて右隣の家の動向を探っていたのだが、まったく物音がしない。表札をみてもオフィスというわけではなさそうだし、夜はそれなりに話し声やテレビの音が聞こえてくるのだから壁が分厚いというわけでもない。既に外出した後であれば問題はないが、眠っているところにけして静かとは云えないハナコの旧型の洗濯機の機械音がするのは気の毒だし、思わぬご近所トラブルを生むことになるかもしれない。 いつか見たワイドショーの映像を思い出し、その張本人になった自分を想像してぞっとなった。そして、そのことを隣の席の同僚にうちあけてみた。彼はまだ悩んでいるのかと嘲笑した後、新聞をとっていれば分るのかもしれないねといい、ストーカーみたいだなとまた笑った。

残念なことにハナコの家がそうであるように、右隣の家も新聞は取っていなかった。ただ幸いにもその後すぐに問題は解決することになる。隣人に直接尋ねるチャンスがめぐってきたのだ。
珍しく早く出勤し、ちょっと誇らしげに早々に会社をあとにしたある日のこと。いつも行くスーパーに立ち寄り、両手に荷物を抱えて階段を上がると、右隣の家のドアノブに緑色のキーホルダーがぶら下がっていた。きっとカギを開けたまま抜くのを忘れて家の中に入ってしまったか、出かけていってしまったのだろう。どちらにせよ物騒だし、新聞受けから中に入れてあげようとカギを引き抜いた。しかし、後者であれば中に入れなくなってしまうではないかと自分のお節介に気が付き、チャイムを押してドアをノックした。
中で物音がし、覗き穴からこちらをうかがっている様子が分ったので、「カギがつきっぱなしでしたよー」と、あえて出てくるまでもないという主張を込めて大きな声で部屋の中に向かって話しかけた。聞きたくてたまらないことはあるけれど、都会の一人暮らしにお節介なご近所付き合いは無粋だ。隣人の顔を知らない生活は、味気ないけれど、それはそれできちんとした秩序をもった文化なのだとどこかのライターも言っていた。最初の予定通り新聞受けに落とそうとしたそのとき、そのドアが開いた。突然ドアが開いたので、新聞受けに手を伸ばしていたハナコは思わず後ずさりして手に持っていた荷物を落としてしまった。
ハナコは驚き、口が子供みたいに半開きになっていた。彼女が驚いたのは突然開いたドアの事ではなく、ドアの向こうからのぞき込んだ顔の方だった。
相手も、見たことがない位驚いていた。いや、もっと漫画に描いたみたいに人が驚く現場に立ち会ったことはあるのだが、その相手がハナコに見せた表情の中では一番大きいリアクションだったのだ。なぜなら彼はいつも素っ気なくて、無表情で、とても静かに笑う人だったからだ。
ハナコのマンションの隣人は、職場でも隣合わせに座っている同僚だった。彼女が脳内ご近所トラブル問題に悩むちょっと前、引っ越し蕎麦を持って挨拶に行くべきかどうかを悩んだ相手は、今時そんなもんは流行らないといい、どこかのライターの言う都会における秩序を持った文化というのを気に入っていたハナコはそれに従った。
彼はいつもと同じように静かに笑い、ありがとうとカギを受け取り
「知っていると思うけど、八時半ならぼくはもう家を出ている」
と教えてくれた。
 洗濯機が作業を終えた合図が聞こえる。掃除機もかけ終わったし、冷蔵庫のストックも調べた。買い物リストは作るほどでもないから、後で携帯のメモ帳に打ち込んでおこう。アイロンがけは終わったばかりだからまだ冷めていないので片づけは後だと、周りをみまわして洗濯物干しをリビングに広げる。

 洗濯物を干す作業は家事の中ではあまり好きではない。洗濯したての柔軟剤の香りが好きになると、洗濯物を干すのも楽しくなると言われて、実家で飼っているシェパードの気持ちになってサンプルの瓶に鼻を近づけては眉をひそめることを繰り返し、やっとの事で気に入った香りを見つけることはできたけれど、期待していたほどのかおりはなかったし、やっぱり洗濯物を干す作業は楽しくはなかった。だけど、今日は水曜日だし、小学生の自分が大嫌いなお習字に通わねばならなかったように洗濯物も干さなければならないのだ。そう自分に言い聞かせながら、彼女はブラウスのしわをたたく。
水曜日は働く日。水曜日を頑張れば木曜は本が読めるし、金曜日はお酒が飲める。土曜日は泥のように眠れるし、日曜日は買い物に行ける。月曜日は映画をみて火曜日はお風呂上がりにヨガをする。甘ったるい外国製の柔軟材の香りの中で、ハナコは一週間はなんてうまくできているのだろうと自分の生活サイクルにうっとりとし、誰に誇るでもなく腕を組み鼻をならした。そして、ふっとドアの向こうにのぞいた彼の驚いた顔を思い出し、でもまぁ、もう少し刺激のある日があってもいいかもしれないなとほくそ笑んだ。

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