中央線
 二週間ほど抱えていた図面の納品をすませ、蛭田園子が顔を上げると時計はちょうど十八時を指していた。久し振りにまともな時間に帰れそうだ。食事にでも誘おうかと向かいの席を覗き込むと、三日前に飛び込みで入ってきた仕事を抱えた同僚が眼を充血させて液晶に向かっていた。下手に声をかけてこんな時間から仕事を回されるのはごめんだ。園子はこっそりと身支度を整え会社を抜け出した。
 大学時代の第二外国語がフランス語だったとどこかではなしたのがまずかった。モロッコにたてるという商社のオフィスの製図を任された。ポケットサイズ日仏辞典と一緒に渡された計算書に目を通して話を聞くと、たいして面倒なつくりでもない、楽な仕事だと思ったのが大間違いだった。日仏辞典を片手に作業をするのは想像以上に骨が折れる作業で、第一、普段使い慣れていないフランス語のアルファベを打ち込むのはそれ以上に憂鬱だった。チェックバックを戻し、先方から終了の連絡が来た時には体中ががちがちに凝り固まっていた。
 職場を出て新宿通りを四ッ谷駅に向かう途中、ふと顔を上げると上智大学に隣接したイグナチオ教会の十字架が目にとまった。薄曇りの夜空をバックに佇むそれは、B級コメディの合成画像のように異質な空気をまとっている。ぞくり、と寒気がする。十月とはいえ、日が沈んだこの時間の気温はだいぶ低くなっていた。園子は肩をすくませると、長くのばしたTシャツの袖口に手のひらをしまいこんだ。
 改札を抜け階段を下りると、昼過ぎに起きた人身事故の影響で東西線の直通運転を中止しているという案内が繰り返されている。ほんの数年前、日本が不景気のどん底にあった頃、”中央線に飛び込む人間が後を絶たないのは何故か”という特集がTVで放送されたのを思い出す。確か、その番組では発着音が原因だとか言っていた。あの頃と、今流れているメロディーは変わっているのだろうか。向かいのホームを発車する電車の出発音が聞こえてくると、園子はまだ到着しないオレンジ色の電車に体が吸い込まれてしまうような気がしてホームの縁から一歩身を引いた。

 十八時過ぎの通勤快速はくたびれた労働者をすし詰めにして四ッ谷駅に到着した。後ろの人間に押されるようにしてその中に入る。なんとかつり革を確保し、左手で掴むと、鞄の中から取り出した文庫本を読み始めた。左手でページをめくり、再びその手を上にやる。プラスチックを掴むつもりで伸ばした手が人肌に当たった具合の悪さに思わず顔をしかめると、背後から「すいません」という女性の声がした。わびたところで、手を離すつもりはないらしい。この電車では良くあることだ。わかっていながら手を離した自分にも非がある。園子は車窓ごしに隣の乗客に頭を下げると、本を持ち替えバランスを取るように足を肩幅に広げた。
 通勤快速は、中野を出ると荻窪まで停車しない。手元の本に夢中になっていた園子は、電車が駅に着くタイミングに気が付かずにバランスを崩し、隣の乗客にもたれかかるように倒れ込んでしまった。くっついてくれるなとでも言うように肘で身体を押し返される。その力に合わせて体勢を立て直し小さな声で「スイマセン」というと再び本に視線を戻した。活字を追っているはずの視点がぼやけているのに気が付いたのは本に落ちた涙のしみが広がるのを眺めているときだった。誰に見られているわけでもないが、ばつの悪さを覚えて、しおりも挟まずに本を閉じる。ちょうど電車が吉祥寺に着いたところだった。
 ホームに降りると、先刻教会の十字架を見たときに背筋に走った悪寒が身体を包み込んだ。身体が弱ると心も弱る。あんな事で涙が出るなんて、きっと風邪の菌にでもやられているんだなと、ホームに備え付けられた鏡で、涙の後がわからないことを確認して駅ビル内の生鮮食料品売り場に向かった。
 吉祥寺を住処に選んだのは通勤に便利であることが第一の理由だったが、「日本一住みたい街」などという雑誌の記事に影響されたのもある。家を探している間、吉祥寺を特集する雑誌の内容には出来る限り目を通し、この家具屋で家財道具を揃えたいだとか、週末は行列の出来る焼鳥屋で買った串焼きを井の頭公園でビール片手に食べようなんていう妄想を繰り広げては新しい生活に夢を膨らませていた。実際に暮らしてみてわかったのは、みんな「日本一住みたい街」に住みたいだけで、その街自体に飛び抜けた魅力があるわけではないということだった。日本一旨い店があるわけでも、特別に格安で品揃えがいい店ばかりでもない。結局、公園で焼き鳥を食べたのは引っ越しの翌日のたった一度きりで、その後はどの街に住んでいても変わらないような平凡な週末を過ごしていた。
 この街に対する期待感はもうとうにしぼんでしまったが、この駅ビルの中の生鮮食料品売り場だけは別格だった。品揃えも良い、値段も安くて、鮮度も高い。仕事で遅くなる事の多い園子にとって、二十一時まで営業してくれるのもありがたかった。ガイドマップの上を散歩するように食べ歩くのだろうという予想に反して自炊する喜びに目覚めることになったのはこの街に住んだ一番の功績だろう。
 今夜は体調が芳しくないせいか食欲がわかない。こんな日の献立はたぬきうどんに限る、園子は買い物籠を手にするとそこに万能ネギとうどんをほおりこんだ。ショウガは冷蔵庫にストックがある。油揚げは商店街の豆腐屋で買うことにしよう。
 京都育ちの園子の作るたぬきうどんは、関東の天かす入りのそれとは異なり、刻んだ油揚げと青ネギとおろし生姜が入っている。あんかけのとろりとした出汁で、のどごしも良く、体がよく温まるので小さい頃から風邪をひくと母親が必ず作ってくれたものだ。料理上手だった母親の、お袋の味というのには簡単すぎる気もするけれど、特別甘やかされているとき口にした味には格別の思い入れがうまれるらしい。「やっぱり、なんだか感傷的になっている」と、子供の頃の思い出に浸る自分に気づき思わず顔をしかめる。
 会計を済ませ、井の頭通り沿いの道を歩いていると急に下腹部に鈍い痛みを感じた。身体中が粟立ってなまぬるい汗に包まれているような不快感が襲ってくる。コンビニのトイレに駆け込もうかと思うが、家までさほど距離はない。ふくらはぎを覆ったブーツに支えられるようにして何とか部屋まで帰り着いた。
「こりゃ、本格的だなぁ」と天井を見上げながらうんざりとした声でつぶやく。風邪をひくと胃腸にくる体質だ。しばらくじっとしていると、腹の痛みが治まったので、のろのろと立ち上がって部屋着に着替えはじめた。
 おろしていた髪に手ぐしを入れ一つに束ねる。頭皮にかいた汗と、ワックスがついた手はべたついて湿気の含んだ匂いがした。何故だかそのにおいが鼻について離れない。外国製のワックスは香料が強すぎるのかもしれない。整髪料をつけるのはあまり好きではない。だけど、最近かけたばかりのウェーブヘアを保つには使わないわけにいかない。パーマがかかりやすい髪質だから大丈夫だろうと思って美容師の勧めるがままに「今年流行のゆるふわ」なんかにしたのがいけなかった。朝起きたときには痛んで広がっただけのぼさぼさ頭になってしまう。
 うどんを食べたら、風呂に湯をはって暖まってから眠ることにしよう。凝り固まった身体もほぐしたい。やっとわいてきた気力に後押しされて、園子はキッチンに立つとネギを刻みはじめた。油揚げを買い損ねたが、今日はお腹の調子も悪いから、油物は控えて正解かもしれない。甘めの出汁におろし生姜と茹でたてのうどんをいれ刻んだネギをいっぱいにふりかけると麺を茹でる前に入れたお風呂のお湯張りが完了したという合図音が鳴った。最近の電化製品は自己主張が強すぎる。冷蔵庫は扉が開けっ放しだとピーピーいい、電子レンジは一度目の合図に反応しないと目覚まし時計のスヌーズ機能のごとく鳴り続ける。お節介で不愉快だと思う音が多い中でお風呂のお湯張り機能にだけは無条件に有り難かった。子どもの頃、お風呂掃除を言い渡される度に叱られた記憶のせいだ。風呂釜を洗い、お湯を流しはじめその場を離れるとついテレビや、本に夢中になってしまう。お湯があふれて流れる音に気が付いたときには怖い顔をした母親がバケツを持って立っていた。あふれるほど入ったお湯を洗濯機に移さなければならない。園子は、同じ失敗を繰り返してしまう自分と、時代に合わない二層式の洗濯機が憎かった。

 食事が終わると、身体はすっかり暖まっていた。このまま、風呂に入って汗を流したら薬を飲んで寝てしまえば、明日には回復できるだろう。
 洗面台で化粧を落とし湯船に足をつけると玄関にほおりなげた鞄の中で携帯電話が鳴り出した。きっと、出張中の恋人の洋介からのメールだろうと無視してそのまま湯につかったのだが、着信音はメールではないといわんばかりに鳴り続けた。自己主張が強い家電の先駆者は携帯だなと眉を潜めて耳をふさぐ。今、裸のままここを離れたら風邪が悪化するだけじゃないかと、頭のどこかで電話の相手が気になって落ち着けない自分に言い聞かせる。結局たいしてゆっくりと出来ないまま、園子は風呂を出た。寝間着の上にもう一枚毛玉だらけのカーディガンを羽織る。鞄の中をのぞくと、携帯電話の液晶が点滅していた。取り出して画面を開くと一通のメールと、一件の着信が表示される。メールの相手は予想通り洋介だったが、着信の相手は高校時代の同級生だった。京都にまだ残っている彼女とはもう二年以上会っていない。普段からメールや電話をするような仲でもないのだが、何かあったのだろうか。気になったまま洋介からのメールを開くと、広島土産はなにがいいかというメールだった。
「広島土産なんて紅葉まんじゅうしか思いつかない」
口に出しながらメールを打ち込む。モミジを変換しようとしたところで洋介から電話がかかってきた。
「なんか予定が狂ってさ、実はもう東京なんだよね」と、さも驚いただろうと言わんばかりに洋介がいう。
「じゃぁ、お土産なにがいいかなんて手遅れやん。紅葉まんじゅう食べたかった」
「おいおい、メールしたのって新幹線に乗る前だよ。昼過ぎじゃん」
洋介の言葉に、仕事中に携帯が鳴っていたのを思い出した。電話が鳴るまで携帯を見なかったから忘れていた。
「紅葉まんじゅうはかってきたよ。今から部屋にいってもいい?」
「なんか体調悪いから、今から寝る所なんよね」
「じゃぁ、お土産だけ置いてすぐかえるよ」
 早く布団に入りたいという気持ちに、人恋しいきもちが勝ったのだろうか。いつもなら邪険にする洋介の突然の訪問癖に「何時位になりそうなの?」と迎入れる言葉が園子の口からでる。東京駅の中央線のホームから電話をかけていたという洋介は、それから1時間もしないうちに園子の部屋に現れた。

 園子と洋介が出会ったのは大学に入学してすぐの履修説明会の席だった。
「かえるださん?」
園子がプリントに書き込んだ名前を盗み見て話しかけてきた洋介の憎めない笑顔に思わず「ゲロゲロ」と笑い返してしまったのが最初の出会いだ。次に語学の授業で一緒になったときには「カエルちゃん」と呼ばれた。お酒を一緒に飲むようになると、カエルちゃんがカエルになり、ぴょん吉とかケロッピなんかに変わったときには多分もうキスをしていた。園子と初めて呼ばれたのはベッドの中に入ったときだ。誰を呼んでいるのかわからなくて興奮していた気持ちが一瞬退いていったのを覚えている。自分が呼ばれているのだと気が付いたときには妙に感動した。

 洋介が差し出した紅葉まんじゅうを受け取ると、園子はキッチンに立ってやかんを火にかけた。
「モミジとカエデって同じ葉っぱだって知ってた?」
ワンルームの部屋を仕切るソファの上でひっくり返った洋介が園子の背中に向かって話しかけてくる。
「ていうかさ、カエデってどういう意味か知ってる?」
「それが言いたくてわざわざきたん?モミジはきれいなカエデの呼称でしょう。英語にしたら両方ともメープルだよ」
「ふーん。まぁ、そんなことはどうでもいいんだけどさ。カエデの語源だって。しってるか?」
洋介は、園子がモミジとカエデの話を知っていたことを不満そうにしながら自分で買ってきた紅葉まんじゅうの包みをびりびりと破いている。
「そんなん知りません。はい、お茶」
洋介は、園子の腕を掴むと箱から取り出したまんじゅうの包みをその手のひらに乗せた。
「蛙の手。カエルデ、カエデだよ。」
「だじゃれ?赤んぼの手の平とかをいうのは聞くけど、蛙ねえ。あんまり美しいイメージやないね」
手のひらに乗せられた包を開き、半分に割って口に含む。
「なんか感動が薄いなぁ。せっかく人が為になる話をしてやったというのに。お前の手だぞ。もっと喜べ」
「私、蛙じゃなくて蛭やもん。ヒル。わかる? スタンドバイミーにでてくるやつ」
「蛭って、あの気味が悪いナメクジみたいな奴だろ。血とかすっちゃうんだろ。蛙の方がかわいくていいじゃん」
 二人はケラケラ笑いながら、出会った頃から何度となく繰り返してきた会話をさも初めてのようにする。映画の中で少年達が池で蛭まみれになるのを園子に教えたのは洋介だった。
 出張先で食べたお好み焼きがいまいちだったとか、帰りの新幹線で宴会を始めたオヤジのいびきがうるさかったとか、洋介が一人で話すのを聞いているうちに園子の瞼がだんだん下がってくる。「ごめん、もう寝るわ。帰るなら鍵よろしくね」と洋介の額に手をやり、もう片方の手で自分の額の温度を確認する。
「やっぱり熱っぽい」
そういうわけだから、と園子はソファの脇のベッドに潜り込んだ。
 明るい部屋はなかなか寝付けない。園子が頭まで被っていた布団を洋介がはいで上に覆い被さってきた。
「大丈夫か。我が輩が、触診をしてやろう」とふざけて胸元に手をつっこんでくる。いやだいやだと押し返しながらじゃれあっていたら、洋介が急にまじめな顔をして「なんか乳が腫れてる」という。
言われてみれば、乳房が張って痛いような気がする。「きっと生理が近いんでしょう」と答えながらシャツの中につっこんだままの洋介の手を抜きながらまた布団の中にもぐりこんだ。

 翌朝、園子が目を覚ますと洋介はの姿はなかった。いつのまに帰ったのだろう。ベッドの上でじゃれあった後、洋介が立ち上がって自分から離れていったのは覚えているが、その後彼が部屋をでていった記憶がない。よく寝たはずなのに、まだ身体のだるさが抜けていない。
 ふと、昨夜の洋介の言葉を思い出して襟ぐりから自分の乳房をのぞき込んだ。さほど豊かではないバストだが、いつもより丸みを帯びている。それに、乳輪がこころなしか黒ずんでいるように見える。そういえば、最後の生理はいつだっただろうと考えるが、元々が不順な上に、仕事で不規則な生活をしているせいですぐには思い出せない。でも、思い出せない位前といわれたらそうかもしれない。園子の頭の中で思い当たることが次から次に一つの答えにむかってベクトルを合わせていく。

 いつもより早めに家を出ると、駅前の薬局に立ち寄って検査薬を購入した。改札を抜けていつもと同じ4番線のホームにあがろうとして、足を止める。時計を見ると、まだ時間に余裕がある。園子は階段に背を向けると隣の総武線のホームへ向かった。快速電車に比べたら、お茶の水から千葉方面に向かう総武線は朝の時間でも比較的空いている。
 電車に乗り込み一息つくと、「まだなにも決まったわけではないのに」と、自分の行動が滑稽に思えてきた。洋介はなんと言うだろうか。本当は今すぐにでも会いたいと思うけれど、まだ何も決まった事じゃないのだと肩からぶら下がった鞄をぎゅっと抱きしめた。
 オフィスに入ると真っ先にトイレに向かった。検査薬に表示されたのは、昨日見上げた教会の上の十字架だった。
「尿をひっかけて十字架が見えたなんて言ったら、神様も怒るわ。」と心のそこからこみ上げてくる暖かい気持ちをなだめるように小さく笑った。
 席に着くと昨日着信があった相手からメールが届いた。久しぶりの連絡にふさわしいサプライズに、おさえていた気持ちが身体いっぱいにひろがってくる。重なる喜びに思わず笑みがこぼれた。
「久しぶり。元気してる?私はなんと妊娠しました!来春結婚します」
ピンクのハートで締めくくられたメールに返信ボタンを押す。
「おめでとう」と打ったところで携帯を閉じる。返事をするのはもう少し後が良い。

(了) 玄関に戻る