僕の好きなもの
「君の好きなものを教えてよ。」
 好きなもの?僕は、電車が好きだ。電車はこの世の中のどんなカフェテリアより、図書館より、ベッドより、すばらしい読書空間である。この世の中のといっても、せいぜい僕が比べることができるのはほんの一握りの空間に過ぎないわけだけど、とりあえず、僕の中では一番の読書空間だ。君はきっと、それは電車が好きというよりは、読書が好きなのではないかと反論するのだろう?もちろん、そうともいえる。僕は、読書が何よりも好きだ。そして、読書をするために電車に乗る。僕にとって電車は読書をするための場所と言っても過言ではない。そう、そうしたら、また君は言うだろう。
「じゃぁ、君の乗る電車の行き先はどこだっていいってこと?」
 もちろん、読書ができるならば、行き先は何処でもいい。ちょうど、手にとった本の半分、半分と言うのは量的な半分ではなくて、思い入れの半分であると言う事を理解頂きたいのだけど、何が言いたいのかと言うと、その半分が往路になり、その残りが復路になる、そういう行き先であればなおよろしいということだ。唐突な事を言うようだけれど、僕はカレーライスをとても上手に食べれるくちだ。これは、理想的な終わり方に向かって収束する術を持っている、そういうことだ。きっと、僕にはそういう隠れた力が備わっている。この力が訓練による賜物なのか、もともとうまれもってあるものなのかは定かではないけれど、カレーライスのルーとご飯をちょうどきり良く食べ終る事ができる事のほかに、電車の中で本を上手い具合に読み終るために役に立つ。この能力のおかげで往路の長さを知っているならば、帰りの電車が駅に到着するその瞬間に物語の最後を確認する事ができる。
 人生と言うのは好きなことだけをやっていれば幸せというわけではない。いくら君が、焼きたてのシナモンロールが好物だからと言って、あの甘い香りに一日中包まれていたいと思わないように、(もちろんそんなことはおもわないよね?)僕だって、一日中電車の中で本を読んでいたいと思うわけではない。だから、必ずしも電車の行き先が僕の選んだ本に見合った距離であることを常に望んでるわけではないのだ。学校に行くために乗る電車は本を読むために乗る電車ではないから、本を読むのに適している必要はなくて、学校に着けばそれが一番よろしいのだ。本を読むなら行き先はどこだっていいけど、移動する目的をもって乗る電車の行き先は行きたいところじゃなくちゃ困る。ってこと。 
「さっきから聞いてると、君はたいして電車が好きなわけじゃなさそうなんだけど。」
 僕としたことが、誤解を招くような発言をしてしまったようだね。どうしたら、この誤解を解けるかな。そうだね、僕は電車が好きだ。それは本を読むのにすばらしく適した空間であるからなんだけど、その他に、ほら、こうやって……、あぁ最近花粉が飛んでるせいか、目が痒くて。
「電車の中にまで花粉が? 君が花粉症だったなんて知らなかった。」
 違う、違うんだ、あぁまた誤解を招くような発言をしてしまったね。正直に言うよ、目が痒いなんていうのは嘘で、僕は君の顔を見つめてしまうのが怖いんだ。電車の中なら、ほら、こうやって横に座ってはなしていられるだろ。だから、電車が好きだって、言いたかったんだ。
「どうして怖いなんていうの?」
だって、キスをしたくなってしまうだろ。
「気持ち悪いくらい気障な事を言うのね。」
いいじゃないか、まだ僕達はたったの十七回しかデートをしたことが無いんだし、そのうち手をつないだ事は十二回しかない。

「キスをした回数も覚えているの?」

……八回。

−−君は、かわいい顔をくしゃっとゆがませて僕の隣で笑っている。僕は電車は電車でも地下鉄が好きなんだ。ほら、こうやって横に座った君の顔が向かいのガラスにずっと映っているからね。かわいいなぁとぼけっと眺めている僕の横で君がつぶやく。

「ところで、君の能力が確かなものならば、私たちは予定調和的に別れる事ができるって事かしら?」



※原案
「満身創痍」
春がきて出会ってしまった君の目を直視できずになる花粉症

TotalCreators!内チャットイベント「三語+」お題『甘い香』『痒い』『八回』投稿作品
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