スーパーカリフラワー
「お願いがあるの」
 突然、呼び出された喫茶店で僕が席につくなり佐代子が言った。佐代子がこうして僕に頼みごとをするなんて、二人が出会ってから今までで一度でもあっただろうか。しかも、シュチュエーションとしてありえないのはここが家の外で、僕の前にはミルクレープとアールグレイのケーキセットが並んでいるってことだ。
 何を隠そう、佐代子は僕の母親だったりする。僕が自分の母親を佐代子と呼ぶのは家の外だけのことである。もちろん佐代子に向かって「おい、佐代子」なんて呼びつけた日にはその手にもった凶器が投げつけられるだろう。できればそれが包丁でない事を願いたい。反抗期が生む家庭不和を飛び越えて、ドメスティックバイオレンス(流血あり)エリアに突入である。
 佐代子の子育ては厳しかったが、その甲斐あって僕は品行方正文武両道質実剛健色即是空とばかりに慎ましく穏やかに清く正しくすくすくとのびやかに成長を遂げた。世の中には、親が厳しすぎて「グレチャイマシター」なんていうリーゼントがいるようだが、僕が十五の夜にバイクを盗んで行き先もわからないままに走り出さずに済んだのには、佐代子の厳しさの裏に秘められた人間性によるものだろう。もちろんその人間性は、往々にして問題はあるわけだが、言ってみるなら反面教師、佐代子のとんでもない思想は僕を冷静かつ公明正大で世の中の優等生という部類の人間に育て上げた。
この点について、僕は非常に感謝している。そうでなければ、僕は今頃二丁目辺りで左耳にでっかい金のピアスをつけてヒゲ坊主のタンクトップ姿でカクテルを作りながら「ヤッダー!」なんて言っちゃってるか、夜は漫画喫茶でオンラインゲーム(大貧民)にエントリーして大富豪栄光時代を築き、昼間は携帯電話工場でベルトコンベアーにのって運ばれてくる部品にシールをつけて日銭を稼ぐような生活をする羽目になっていたに違いない。リーゼントにだけは自分の意志でならないようにしていたと思う。
 とにかく、僕は女性不審にも、ネットカフェ難民にも、お笑い芸人にもならないですんだわけである。ついでにいうと、僕には二つ年の離れた姉がいるが、それも今のところお天道様に申し訳が立たない人生は送っていないようだ。若干、行動が地球の標準速度から遅れをとっているために世の中から排斥されかけている節はあるのだが……。どちらにしても、佐代子の子育ての成功を意味しているといえよう。その偉大な母が僕に頼み事があるという。
 彼女の話は、僕の生まれる前に遡る。佐代子がまだ世間的に「先崎さんの奥さん」でも「慎太郎君のママ」(いまさらだが、僕の名前は先崎慎太郎という)でもない「佐代ちゃん」だった頃の話だ。信じ難い事だが、関西に住んでいたら息子から「オカン」呼ばわりされ、豹のアップリケがついたTシャツをきて、電車の中でであった初対面の女子高生に「あんたアメちゃんたべ」って話し掛けそうな佐代子にもうら若き女学生時代があった。らしい。
 当時、佐代子は当時高校三年生で演劇部に所属していた。高校三年生といえば世間では受験生になるわけだが、佐代ちゃんが通っていた学校には清く正しく慎ましく(あえて言うならば僕のように!)学生生活を送る淑女をそのまま付属の短大に入学させてくれるありがたい制度があった。演劇部の三年生はクリスマスに開催される卒業公演「メリーポピンズ」にむけて士気を高めていた。ちなみに、佐代ちゃんの役は風船売りのおばあさん及び町の人及び小道具であった。引退舞台であるのにもかかわらず、役どころがパッとしない事からも分かるように一人三役の担い手となった佐代ちゃんはあんまり出来のいい部員ではなかった。佐代子曰く「名脇役」のポジションだったらしいのだが、まぁそこに言及するのは無粋というものであろう。
 本番を前日に控えた日、部員たちはゲネプロという通し稽古の準備をしていた。これは、本番さながらのセットで行われるわけだが、所詮は高校生の部活動である。しかも、この演劇部は主役クラスである部長と、副部長の二人を除くと残りは自称名脇役ばかりで構成されていた。つまり、野球部的に言うならば万年一回戦落ち、吹奏楽部的に言うなら学内行事専用といった弱小演劇部なのであった。その上、部員は三学年合わせて片手で足りるときたもんだから通し稽古といっても、本番用の衣装を着て台本を最初から最後まで動きをつけて演じるといった程度のものである。そこで事件は起きた。
 メリーポピンズ、僕がその名を最初に耳にしたのは幼稚園の時だ。ピアノ教室の発表会の演目がチムチムチェリーで僕は鈴のパートだった。ズンチャッチャズンチャッチャズンチャッチャズンチャッチャというリズムで曲の頭から最後まで自分の手首を叩いて鈴を鳴らしつづけるというパートだった。なにかを猛烈に後悔したマレーグマのようである。今でも忘れられないのはその簡単なリズムをいつまでたっても覚えられない僕を佐代子が夜な夜な特訓したからにちがいない。(僕は少々音楽的センスにかける節がある)きっとこれも彼女の子育てにおける功績の一つであろう。今思うと、彼女があれほどに幼稚園児の僕に厳しく接したのはこのときの事件のせいだろう。
 この物語はある風の強い日から始まる。仕事が忙しくて子供を構ってやれない両親が二人の悪たれ兄弟(人数の都合上、彼女たちの台本では母子一人の母子家庭だったらしいが)に乳母をつけることにする。ところが、子供たちは両親のえらんだ乳母を気に入らないと、次々と追い返してしまう。そんなある日、風に乗ってあらわれたメリー・ポピンズは、彼らの両親の厳しい躾を無視して彼らを不思議な世界に導いていく。公園に行けば風船売りが名前の書いた風船を売ってくれる。大道芸人が道端に描いたリンゴをかじる、宙に舞いながらお茶会をする、不思議だけど愉しい毎日の中で次第に子供たちは素直でいい子になっていくという物語である。
 佐代子の話をきくうちに、ストーリーを思い出しはしたのだが、確か僕がみたビデオはミュージカルだった。嬉しくても、悲しくても踊りながら歌いだしてしまうアレである。なにやら下を噛みそうな呪文を唱えると不思議と愉しくなるという歌があった。スーパーカリフラワーとかそんな感じの……はて、続きは何だっただろう。確か、その呪文を唱えると銀行をクビになっても愉快になれるって言う、えらいご都合主義なアメリカンドリーム。さて、カリフラワーじゃなくて、ブロッコリーだったっけかな。うん、僕はカリフラワーよりはブロッコリーが好きだな。考え事モードに入ってしまった僕の頭を佐代子がこづく。
「人の話を聞くときは相手の目を見る!」
「あぁ、わかったよ。でも、母さんの話は前置きが長すぎる。もっと短く説明してくれないかな」
 テーブルの上の紅茶のカップももう空っぽである。僕はそれをアピールしようと空になったカップを揺らしてみたが佐代子はそれに気づいてはくれない。けちな母親だ。

 その日は、朝から強い雨が降っていたのよね。季節はずれの台風みたいな。そんな具合よ。私の通っていた学校はね、それなりに格式ある伝統をもった学校でね、あんたみたいなしょぼくれた頭でっかちのガリベン男子なんて相手にするわけもないお嬢様学校だったわけ。まぁ、伝統があるっていうからには、建物の老朽化も進んでいてね、劇を上演する体育館も例に漏れず。そこら中で雨漏りをしていたわ。私たちが舞台を組んでいたステージ上もあちらこちらにバケツと雑巾を並べてね、でも翌日は本番だし中止するわけにはいかなかったのよ。でも、結局舞台は上演されることはなかったんだし、やっぱりあの時点で止めるべきだったのね。今更言ってもしょうがないけれど。
 メリーポピンズっていうのはさ、蝙蝠傘にぶら下がって空から降ってくるんだけどね、クレーンで釣るとか猿之助スーパー歌舞伎みたいな技を弱小演劇部の私たちにできるわけないじゃない。だからさ、舞台に設置した階段を駆け下りてそれを表現するわけよ。飛べないメリーポピンズはね、まんまとね、落ちたのよ。舞台の上に。

 そこまで言うと佐代子の顔はぐっと暗くなった。
「不幸な事故だったのよ。 たいした高さだったわけじゃないんだけどさ、打ち所がね」
 体育館の中に充満した湿気で沸いた結露に足をとられた部長扮するメリーポピンズは脊髄を損傷し、半身不随となった。卒業まで三ヶ月、夢と希望に満ち溢れた高校生活の辛すぎる結末であった。

「それで、お願いってなんなの。もう三十年も前のことだろ。僕に何しろって言うの?」
 どうせ佐代子の頼みごとなんてくだらない事に決まっていると思い込んでいたが、どうもいつもとは違うシリアスな展開に僕は少々困惑していた。
「これ」
 そういって、佐代子が差し出した葉書には『村雨女学院 演劇部同窓会のお知らせ』とかかれていた。
「今日、あの時のメンバーが集まるの。もちろん、彼女も」
「それで?」
「彼女に内緒でね、残りのメンバーで相談してあの劇を再演する事にしたの」
 その残りのメンバーとは、三ヶ月前から連絡を取り合って舞台の練習をつんできたという。
「それは、その、部長さんのためになるの?」 「わからないわ。でも、もう三十年よ。私もおばさんになった。最後のチャンスだと思うの」 「最後のチャンス?」
「ううん、それはこっちのことよ。気にしないで」
 佐代子は静かに笑うと「慎ちゃんには、彼女を持ち上げる役をして欲しいの」と僕の目を見ていった。
 佐代子は、車椅子になってしまったメリーポピンズを支えて蝙蝠傘でまた舞台の上を飛ばせてあげて欲しいというものだった。
「僕でお役に立てるなら」
 ありがとう、佐代子はそういうとテーブルの上に置かれた伝票をもって「行くわよ。時間がないの」と颯爽と店を出て行く。慌てて後を追う僕が外に出たときには店の前の通りでタクシーを停めていた。





 とまぁそういう経緯で、今僕はここにいる。次は僕達の出番だ。そりゃ、緊張もしているけどそれ以上に強い憤りを感じている。黒子役の僕の顔はドーランで真っ黒に塗りつぶされているけど、その下は多分怒りで真っ赤になっているだろう。
「ちょっとー、慎ちゃん、さっきの説明わかった?」
「ぁあんっ」だらしなく喋る姉貴をぼくはキッと睨みつける。
「こわー。ママー、慎ちゃんのことどうやって連れてきたの?」
 風船売りのはずの佐代ちゃんは帽子をかぶり、蝙蝠傘をさしてすっかり主役気取りだ。その脇で僕と同じように顔を真っ黒に塗りつぶした親父は煙突掃除ってところだろう。
「呪文よ呪文。魔法の呪文で呼び寄せたのよ」
今にも高笑いが聞こえてきそうな佐代子になおも姉貴が喰いかかる。
「なぁに? じゅもんってぇ」

『さぁ、ヤンさんの仮装コンテストもそろそろ終盤戦となってまいりました。次は仲良し家族の登場です。十八番!メリー・ポピンズ』
 舞台から司会者の声が聞こえ、袖で待機しているADが僕等に登場を促す。一体どういうわけで、この僕がこんなくだらない仮装番組に家族そろって出なくちゃいけないんだ。いくらなんでも酷すぎる。僕はまんまと佐代子の名演技に騙されたわけだ。「名脇役」も当たらずとも遠からず主演女優賞ものである。

「さぁ行くわよ。いい、狙うは賞金百万円あるのみ!」
 佐代子は僕の怒りを全く無視して舞台の中央を指差す。
「スーパーカリフラジリスティックイクスピアリドーシャス!」
 佐代子の声は舞台の端々につけられたマイクに拾われて会場中に響いた。
(あ、スーパーカリフラワー)
 その不思議な呪文をきいた僕は、心の中の憤りとかそういうの全部どうでも良くなったのでした。ちゃんちゃん
(了) 玄関に戻る